- From: 木田泰夫 <kida@mac.com>
- Date: Wed, 4 Oct 2023 17:00:58 +0900
- To: Makoto MURATA <eb2m-mrt@asahi-net.or.jp>
- Cc: JLReq TF 日本語 <public-i18n-japanese@w3.org>
- Message-Id: <4764A672-55CD-4A3C-9BBD-C78993CBBFDA@mac.com>
村田さん、 > 全角・等幅がここまで主流になったのは活版印刷以降のことのはずで、今後のデジタルテキストでそれが中心になるべきかどうかはとても疑わしいと思います。 JLReq は現状を記述しましたよね。JLReq-d も基本的には現状と、現状をベースに置いたデジタルでの必然的な変化を述べるのであって、現状を離れた意見・希望・予測にまで足を延ばす場所ではないと思います。 ただ、読んでくれた人たちに、未来の可能性に向けての議論の材料を提供できればと思います。例えば全角の議論関係では、技術的な変化によってプロポーショナルな日本語書体が出てきていますので、そのようなものの存在やプロポーショナル日本語の歴史的なバックグラウンドについて、二章以降に触れるのはどうでしょう。 木田 > 2023/10/04 16:00、MURATA Makoto <eb2m-mrt@asahi-net.or.jp>のメール: > > 木田さん、 > > 私には「1.4.1 欧文組版から見た日本語組版の特徴」が、 > とても活版印刷以降に偏っているように見えるのです。 > 全角・等幅が日本語組版の中心であり、今後の日本語 > デジタルテキストでもそれは変わらないと謳っている > ように見えます。 > > 全角・等幅が昔からあったのは事実ですが、江戸時代の > 民間向けの読み物にはほとんどなかったのでは?肉筆で > 書かれたものを、版木に掘り起こすものが中心だった > はずです。全角・等幅がここまで主流になったのは活版 > 印刷以降のことのはずで、今後のデジタルテキストで > それが中心になるべきかどうかはとても疑わしいと > 思います。 > > 村田 真 > > > > 2023年10月4日(水) 11:09 木田泰夫 <kida@mac.com <mailto:kida@mac.com>>: >> 村田さん、 >> >> はい。この文脈では、日本語書体の現状を説明するために、全角・等幅が「昔からあった」と触れているだけです。そうでない例があったことは自明ですがそれはこの場所では関係ないかと。 >> >> 木田 >> >>> 2023/10/04 11:05、MURATA Makoto <eb2m-mrt@asahi-net.or.jp <mailto:eb2m-mrt@asahi-net.or.jp>>のメール: >>> >>> >>> 木田さん、 >>> >>> 唐様の書字は、日本でも昔から存在しました。これは、全角というか正方形が基準でしょう。しかし、そうでない書字もずっと日本にはあったのです。和様です。 >>> >>> 前にも書きましたが、「歴史の中の書」という 『全日本美術新聞』で連載を締めくくった記事を引用します。田宮 文平という美術評論家が連載したものです。 >>> >>> http://www.all-japan-arts.com/rekishi/1212rekishi.html >>> http://www.all-japan-arts.com/rekishi/1301rekishi.html >>> >>>> 日本語を表意文字の漢字と、表音文字のかなとを混合して書くことは、日本の書の表現に多大の影響を与えてきたのである。 >>>> 漢字は表意文字として独立した意味をもつから行頭、行末をぴたりと揃えて書いても何ら問題がない。しかし、表音文字としてのかなは、一字では基本的に語を形成することができない。その意味では、漢字の具象化に対して、かなは本来的に抽象性の存在であると言える。「さくら」にしても「もののあはれ」にしても、漢語のように行頭、行末を強制的に揃えようとすれば、語は至るところでぶつ切り状態になってしまう。 >>>> これを逆手にとって美の空間をつくろうとしたのが、平安古筆における散布(散らし書き)である。純粋な言語表記ならば、行を整えて書くことの方が合理的であろう。それを、かな文字の抽象性を生かして料紙と共に美的空間を創造したのが、散布(散らし書き)である。漢語では、とんでもないところに一字が飛んで書かれるなどということは表意文字の性格からしてもありえないことであろう。 >>>> このように多様化した日本語の表記も中世に至ると日常的には、漢字かな交じりが普及する。ところが、書においては中国文化の影響力から唐様と和様が強固に存在し、漢字書と、かな書とに二分されて長くつづくのである。漢字かな交じりの書は、なかなか、芸術的に評価されることが少ないのである。 >>> >>> 杉浦 妙子「源氏物語』に見る紫式部の書美について」(書学書道史研究) <https://www.jstage.jst.go.jp/article/shogakushodoshi1991/2007/17/2007_17_3/_article/-char/ja/>を読むと、紫式部が唐様・和様をどう考えているか分かります。面白いのが末摘花のダサさを象徴しているのが、行頭と行末が揃った書きぶりなことです。以下、與謝野晶子訳 <https://www.aozora.gr.jp/cards/000052/files/5021_11107.html>の源氏物語末摘花から引用します。 >>> >>> 書くことだけは自身でなければならないと皆から言われて、紫色の紙であるが、古いので灰色がかったのへ、字はさすがに力のある字で書いた。中古の書風である。一所も散らしては書かず上下そろえて書かれてあった。 >>> 失望して源氏は手紙を手から捨てた。 >>> >>> 村田 真 >>> >>> 2023年10月4日(水) 9:11 木田泰夫 <kida@mac.com <mailto:kida@mac.com>>: >>>> 山本さん & all、 >>>> >>>> 「1.4.1 欧文組版から見た日本語組版の特徴」の下の部分に対し、山本さんがコメントをくださっています。面白い話題なのでここで質問を。 >>>> >>>> 元のテキスト: >>>>> これは金属活字より続く印刷の特徴(例)であるが、固定幅で字を書く伝統は遠く古代中国や日本の手書きの時代からフォーマルな文書に見られ(例)、脈々と続いてきた伝統でもある。 >>>> >>>> >>>> >>>> 山本さんのコメント: >>>>> 山本:「これは金属活字より続く印刷の特徴(例)であるが」とありますが、むしろ「これは鋳造金属活字を用いた西洋式の活版印刷術から継承されてきた文字設計の特徴」が正しいと思います。なぜなら、印刷技術は金属活字に先行して開発され、中国や韓国での金属活字の発明はグーテンベルクの発明に先行するからです。 >>>> >>>> ここですが、「古活字版」を検索してみると、確かに嵯峨本のようなプロポーショナルなものもありますが、明らかに等幅のものもありますので、西洋式の活版印刷術が等幅の始まり、とは言えないのではないでしょうか? >>>> >>>> e.g. >>>> https://www.morisawa.co.jp/culture/japanese-typesetting/04/ >>>> >>>> >>>> また、 >>>>> 山本: 「固定幅で字を書く伝統は遠く古代中国や日本の手書きの時代からフォーマルな文書に見られ」とありますが、手書きの書の場合には文字字体の幅は等しくはなりません(これは格子状のグリッドのガイドライン[専門的には方格鳥絲欄と呼ぶそうですが]を用いていない手書きの書において明らかです)。方形の欄を用いたのは、字幅が揃わない文字を、一行あたりの文字数を揃え、一定の間隔で、整然と配置することが目的であったと考えられるのではないでしょうか。そうであれば、ここは、 「方形の枠をガイドとして文字を書く伝統は遠く古代中国や日本の手書きの時代からフォーマルな文書にも見られ」とするのが良いのではないでしょうか。 >>>> >>>> ですが、以前「台頭」の話題で田嶋さんが送っていただいたリンクの例など、「科挙の答案」を画像検索してみると、枠なしで等幅進行です。下の例でも、特に幅の大きい/小さい字が出てくるとそこで少々乱れますが、原則は等幅進行といえましょう。 >>>> >>>> >>>> >>>> >>>> >>>> 元記事へのリンク >>>> >>>> https://github.com/w3c/jlreq-d/wiki/1.4-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E7%B5%84%E3%81%BF%E6%96%B9%E5%85%A5%E9%96%80 >>>> >>> >>> >>> -- >>> Regards, >>> Makoto >>> > > > -- > Regards, > Makoto > <科挙 模範解答 1.jpeg><img_japanese-typesetting_21.jpg><img_japanese-typesetting_21.jpg><img_japanese-typesetting_21.jpg>
Received on Wednesday, 4 October 2023 08:01:20 UTC