- From: Taro Yamamoto <tyamamot@adobe.com>
- Date: Wed, 24 Apr 2024 02:48:39 +0000
- To: 木田泰夫 <kida@mac.com>
- CC: JLReq TF 日本語 <public-i18n-japanese@w3.org>
- Message-ID: <DM8PR02MB8070F3F59AA0D5EDC8B9B534CE102@DM8PR02MB8070.namprd02.prod.outlook.com>
木田さん * グラフの線を使って、ものごと→その性質、や、原因→結果、抽象→具体、という関係で繋がっています。繋がりのわかりにくいところがありますか? 論理的に繋がっていない組み合わせがあるかもしれません。 了解しました。 * デバイス一つ一つが組版機械である、というところで、あれ?と思ってデバイス、に書き換えたんですが、やはりデジタルテキスト、が中心であるべきでしょうかね。戻します。 ここで「デバイス」と書かれているのは、(1)組版が行われて(2)その結果が表示・印字される装置のことだと理解しています。つまり、それはデジタル・テクストの視覚的・物理的な表現形式を生成して(必要に応じて表示あるいは物理的に定着させる)フェーズを担っていることになると思います。そうだするとデジタル・テクスト自体はそれ以前の段階にある情報と考えらえれるので、デジタル・テクストとデバイスとは切り離して考えた方が良いのではないでしょうか。 そう考えると、ここでの「デジタルテキスト」は、デジタル・テクストそのものというよりは、むしろ組版されて表示・印字された結果のことを意味しているか、あるいはその点が曖昧なのか、どちらかのように感じてしまいます。 そのことと関連して、右側の「紙のコストがない」とか「画面のサイズからの制約」などはすべて、デジタル・テクストを制約しているというよりは、組版および組版の結果を制約している性質のように思えます。また「パラグラフスタイルや省略への影響」の意味が分かりませんでした。 他方で、インタラクティヴィティティやダイナミックに体裁だけでなくテクスト自体もまた更新・改変・生成できる点は、デジタル・テクストに固有の性質かもしれません。なぜなら、デジタル・テクストを生成したり操作する段階では必ずしも人間や物理的な作業工程を伴う必要がなく、効率的に情報処理として計算機上で行えるからです。 グラフの座標軸に意味を対応付けると、さらに分かりやすくなると思うのですが。ただ、二次元を超えると、アイソメトリックで描くか、3Dにしてどこからでも眺められるインタラクティブなビデオクリップにする必要があるかもしれませんが。 * ポイントは、デジタルテキストでは冊子形態によることなしに、それが可能だというところです。よって冊子形態が画期的であったその利点の多くが冊子形態に関係なく実現する。よって冊子形態の利点の多くが消失する。わかりやすくします。 ランダムアクセスは冊子という製本様式に固有なのではなく、インデックスの有無に依存しているのではないでしょうか。たしかに冊子の場合ページ番号をインデックスに利用できる利点はありますが、辞書などの場合には、見出し語に番号を振ってインデックスから参照する場合もあります。そうするとデジタル・テクストの利点としては、インデックスを早く効率的に引けるということではないでしょうか。やはり、これは検索とも関係してくると思われます。 * この「内容と形式の統一という従来の書籍の在り方」の端的な例を二、三教えていただけるとありがたいです。 「内容と形式の統一」と言っても、例えば夏目漱石の『草枕』の組版や装幀は、出版社やデザイナーによって多様です。同じ内容でも、比較的大きなサイズの上製本にすることもできれば小型の文庫本(ペーパーバック)にすることもできます。他方で、『草枕』の体裁をA・V・エイホその他共著の『データ構造とアルゴリズム』(培風館)の体裁と同じにしたり、『新古今和歌集』の体裁を佐々木高政著『英文解釈考』(金子書房)の体裁と同じにすることはないでしょう。たとえそれがCSSを切り替えるだけで可能であったとしても。 また、装飾写本として有名なダブリンのトリニティ・カレッジ所蔵のBook of Kellsや、大英博物館所蔵のLindisfarne Gospelsのような書物が、あのように華麗で精緻な装飾をもって作られたのも、それが福音書というキリスト教にとって重要なテクストだったからで、その体裁をファストフードのメニューのCSSに切り替えることは、たとえ技術的に可能になったとしても、行わないでしょう。 しかし、書籍の歴史における、このような内容と形式との制約関係は、マークアップ言語とスタイルシートが、同一の内容に対して異なる体裁を効率的に流用可能にしたことで、曖昧になっているように見受けられます。内容と形式の分離というのは、歴史的には写植機用の組版言語(LinotypeのCORAなど)やtroffなどのOS上の文書整形プログラムがサブルーチンやマクロを採用したりIBMがGMLを作ったりしたのが最初ではと推測します。もちろん、このやり方には大きな利点があるわけですが。 山本太郎
Received on Wednesday, 24 April 2024 02:48:47 UTC