RE: 行長は全角の整数倍であらねばならないか



(もう少しコメントいたします)



  *   が、もっと長い単位で見てみれば日本語が融通無碍に他を取り込んでゆく様は今までの歴史通りでしょう。とすると、日本語が全角だけで構成されるという前提自体を放棄する必要があるのだと私は思います。



「日本語が全角だけで構成されるという前提自体を放棄する必要がある」のは、日本語の本文を組むのに使われている書体に含まれる漢字や仮名が、全角正方形の仮想ボディの範囲内で等幅でデザインされていない場合だけです。本文を構成する主たる言語が日本語で、それを組むのに使われている書体の漢字と仮名が全角正方形の仮想ボディの範囲内で等幅でデザインされている場合には、その前提を放棄することはできません。(この理由は既に述べました)。ただし、これは、便宜的あるいは効率上の優先順位との関係で放棄せざるを得ない、あるいは放棄した方が望ましい場合があることを否定するものではありません。



  *   もちろん、全角だけでなる組版の美しさを否定するわけではありませんが、それは平安時代の連綿の美しさと同じで、いずれ過去の美しさになるのでは、と思っています。



私はここで議論されている事柄の中心は、美意識の問題ではなく、原則の問題であり、フォントに含まれる文字の形を正しく再現して期待される組版・表示結果を安定的に出せるようにするために何が必要か、ということだと理解しています。もちろん、このことは、書体がプロポーショナルか、否か、組版指定がstaticに行われるのか、dynamicに行われるのかによって、変化することは、先に述べたとおりです。



  *   仮名と漢字と句読点に限っても、全角領域のなかで前景色と背景色の割合がぜんぜん一定しないというのは、果たしてどうなんでしょう。なお、漢字がすべて真っ黒な四角に見えるディスレクシアがいるようなんですが、画数が多い漢字は大きくたって良いんじゃないか、そのほうが読みやすいんじゃないかと思ったりします。



実験としては大昔から行われています。1990年にOxfordで開催されたATypIの総会で、小塚昌彦氏が講演された内容の一部でも、漢字の濃度を分散させるために字幅を変化させることが提案されました。UniversやFrutigerなどの有名な欧文書体をデザインしたAdrian Frutiger氏も1987年に来日時に「漢字は濃度をより均質にするために文字によって大きさを変化させればどうか」と述べていました。ただし、このことにはいくつか検討が必要な点がありそうです。



  1.  これらの可変サイズまたはプロポーショナル字幅の漢字は、先に述べたプロポーショナル日本語書体がもつ欠点を共有しています。つまり、縦組と横組とでグリフ又はメトリクス情報を、1文字につき2組作らなければならなくなる点です。
  2.  もう1点は、濃度の均質さが必ずしも読みやすさに直結しないかもしれないからです。幅広い画数の変化のレンジをもつ漢字と、漢字よりも相対的に濃度が低く性質の異なる形をした仮名とのコントラストが識別に貢献している可能性、個々の漢字の識別に濃度差が寄与している可能性が考えられます。これらの点はさらに今後の調査研究が待たれる課題ですが、漢字の濃度分布をコントロールするために字幅を調整することは、デザイン上の一つの選択肢となるかもしれません。
  3.  他方で、ベタ組における字幅の冗長性が読みやすさに貢献している可能性も考える必要があります。



これらの事柄は、プロポーショナルな日本語書体の可能性が広がっていることを示唆しています。そのため、今後もいろいろな角度から実験的な書体デザインが模索されることが望ましいと考えます。しかし、プロポーショナル日本語書体が将来確実に普及して大多数を占めることになるという必然性が立証されたわけではなく、今後の動向を観察する必要があるでしょうし、実用的な領域においてプロポーショナルの方向に日本語書体デザインを積極的に誘導することが良いとも考えらません。ただ、現時点で必要なことは、プロポーショナルな日本語書体を組む方法について考えることは必要なことに違いないと思います。



山本

Received on Friday, 8 September 2023 05:39:37 UTC