Re: BudouX – 日本語の行の折り返し自動化

論文をちゃんとまとめるまで口にチャックしておこう
と思っていたんだけれど....

文節改行をしないと、視線は前の行末と次の行頭との
間を行ったり来たりし、ラグ組文節改行だと行ったり
来たりしないようです。これは、科研費研究による
手持ちの実験データから有意差ありで示せる
と思っています。

一方、ラグ組文節改行だと、次の行頭に動く視線が
行頭でぴたりと止まらず、視線が泳ぐようです。
これも同様に有意差ありで示せると思っています。
移動距離が行ごとに違うのでこうなるのでしょう。

以下は、「歴史の中の書」という 『全日本美術新聞』
で連載を締めくくった記事です。田宮 文平という
美術評論家が連載したものです。

http://www.all-japan-arts.com/rekishi/1212rekishi.html

http://www.all-japan-arts.com/rekishi/1301rekishi.html


日本語を表意文字の漢字と、表音文字のかなとを混合して書くことは、日本の書の表現に多大の影響を与えてきたのである。
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> 漢字は表意文字として独立した意味をもつから行頭、行末をぴたりと揃えて書いても何ら問題がない。しかし、表音文字としてのかなは、一字では基本的に語を形成することができない。その意味では、漢字の具象化に対して、かなは本来的に抽象性の存在であると言える。「さくら」にしても「もののあはれ」にしても、漢語のように行頭、行末を強制的に揃えようとすれば、語は至るところでぶつ切り状態になってしまう。
>
> これを逆手にとって美の空間をつくろうとしたのが、平安古筆における散布(散らし書き)である。純粋な言語表記ならば、行を整えて書くことの方が合理的であろう。それを、かな文字の抽象性を生かして料紙と共に美的空間を創造したのが、散布(散らし書き)である。漢語では、とんでもないところに一字が飛んで書かれるなどということは表意文字の性格からしてもありえないことであろう。
>
> このように多様化した日本語の表記も中世に至ると日常的には、漢字かな交じりが普及する。ところが、書においては中国文化の影響力から唐様と和様が強固に存在し、漢字書と、かな書とに二分されて長くつづくのである。漢字かな交じりの書は、なかなか、芸術的に評価されることが少ないのである。


活版印刷にもとづく日本語組版も、唐様を無批判に
踏襲しただけではないか、技術の制約からベタ組を
しているだけではないかと私は疑っています。

村田 真


2023年4月17日(月) 17:12 Taro Yamamoto <tyamamot@adobe.com>:

> 木田さん、
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> >
> 似た問題かもしれませんが、下の左右の文を読んでみると、右の文節で区切られたものは、行末で一瞬、読みというのか、思考というのか、がポーズする感覚がありました。私だけかな?
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> [image: image001.png]
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> はい。原作者が意図しない、時間的な休止が、挿入されているかに読めてしまう危険性があります。このことは、詩文などで、分かち書きやジャスティファイしない組み方が行われることの裏返しだと思います。
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> (ちなみに、上記の件とは別ですが、欧文ではラギッド組んだ場合に、パラグラフ間を行間空きで示す場合もあれば、インデント=字下げで示す場合の両方がありえます。)
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> 山本
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> アドビ
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>
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-- 
Regards,
Makoto

Received on Monday, 17 April 2023 11:42:32 UTC