RE: web における和欧間スペース

木田さん

スタイルの指示を一つ足すという労力をかけるだけで両端揃えにできます。その中で行頭揃えが多いということは、その要因は何でしょう? そここそを、我々はよく理解する必要があると思います。



現状でデフォルトが行頭揃えで、しかも以前は行頭揃えしかできなくて、和文の組版について知識がさほど豊富でない人がそれに慣れてしまったら、和文を行頭揃えにすることを躊躇する理由がないでしょう。「ダメじゃん、和文の本文は、段落最終行以外は行頭行末揃えにするのが常識なんだから、オプションがあるならそれをjustifyに設定しなきゃダメ。ここの行末だけ、半角だけ凹んでるの変だと思わないの? 他の行は全部揃っているのに」と教える人も少ないでしょうし、疑問すら感じない人が多数派だとしても、不思議ではありません。

User educationというか、それ以前の問題で、はじめから順序が逆では? 行頭行末揃えをデフォルトでちゃんとできる表示ソフトと作成ツールが与えられたときに、「いや、こういうニュース記事のような速報性のある内容をダイナミックにWebで発信する場合には、和文でも行頭だけを揃えた方が、様式的にふさわしいのではないですか? またできれば形態素解析のPythonのモデュールを使って分かち書きをすれば、より視覚的にも効果的かと。だから、text-align属性はjustifyではなくleftにしましょう!」とWebデザイナーが提案する、という状況の方が、Webなどのダイナミックな媒体に適した和文の組み方を積極的に模索する上でも、合理的で健全だと思います。



一方で、和文の文字組みに詳しくないデザイナーは、与えられた表示デバイスやツールの不完全な条件を、当然「正しい」のものとして受け入れる一方で、より意識の高いデザイナーが「なんでみんなこんな組み方してるんだろ?」と疑問を抱かざるを得ず、しかもそういう疑問を持つ人が少数派に甘んぜざるを得ない。こうなってしまっては、タイポグラフィの貧困、文化的貧困とでもいえる状況になってしまうのではないでしょうか。

そのような現状において、「スタイルの指示を一つ足すという労力をかけるだけで両端揃えにでき」るのに、と問うこと自体が、現状を肯定するバイアスがかかっているように思います。


私自身、今書いているメールの空行でのパラグラフ区切り、行頭揃えの日本語が悪いものだとは感じていません。美しさでは劣るでしょうけれど、両端揃えに比べて読みにくかったり、読み間違えたりするとは感じていません。日常使いとして十分です。日本語に関する不満点は他にあります。



これまで、なぜ和文において行頭行末揃えが合理的かを説明してきましたが、その根拠は、必ずしも審美的な要求からではありません。一方で、和文のグリフが全角をベースにデザインされていて(ツメ組み以外では)ボディの字幅は約物等を除いて等幅だからで、他方でベタ組を標準とする慣習があり、行長は文字サイズの整数倍で規定される場合に、もっともその書体デザイナーが意図した字間の詰まり方が保証できる可能性が高いからです。禁則処理や欧文が含まれない場合には、容易にこの和文の自然状態に戻るわけです。この合理性が基本にまずあって、そこから揃っている方が美しいという認識が派生するのだと思います。


「空行でのパラグラフ区切り」は別問題でしょう。紙の上の印刷物でも、パラグラフの先頭を字下げする代わりに、空行を挿入することは、特に横組みの書籍や商業印刷物には多くあります。


「行頭揃えの日本語が悪いものだとは感じていません(中略)両端揃えに比べて読みにくかったり、読み間違えたりするとは感じていません。日常使いとして十分です。」

それには理由が2つあると思います。まず、(私が書くメールを除けば、通常)メールの文章は長くないからです。パラグラフごとの行数が2–3行の場合であれば、行末の揃えは気にならないかもしれません(なぜなら、ぴったり揃っている行末の数が相対的に少ないからです)。それでも、行数が5行以上になってくると、行末がぴったり揃っている行が何行かあったかと思うと、一部凹んだりしたり、微妙なカーブ状になったり「揃っているところ」と「揃っていない」ところの差異が目につくようになるでしょう(禁則処理がなければ和文だけだと必ず行末は揃ってしまいます。揃わないのはそれ以外の場合だけです)。



もう一つの理由は、以前にも書きましたが、「メールを書いて編集する作業」の過程にいるからです。入力したり削除した文字が即時に表示されて素早く効率的にテキストを仕上げられることの方が、「正しくtypeを組む」ことよりも優先順位が高いからです。私もメールの編集段階で、行頭行末を揃えてくれたり、和欧間のスペースを入れてくれたりしたら、「お節介な、止めてくれ!」と叫ぶでしょう。まったく同感です。

しかし、メールの送信ボタンを押した後、どんなメールを相手は受け取るのかを確認しようと、編集モードではなく表示モードでは正しく組めるようになっていれば、相手側がそのメールを開いた時に、どちらが好感を抱くかが想像できるはずです。(もちろん相手が返信を書く時には、編集段階ですからやはり行頭行末揃えなど行いません)。このメールのはじめの部分を、行頭揃えと行頭行末揃えで比較してみたのが以下の例です。



[cid:image002.jpg@01D896CB.1D569290]




この左側の例のように、「揃っている個所とそうでない箇所との不統一があっても構わない、気にならない」という人もいるはずです。しかし、これまで述べてきた理由から、それは主観であって、そのことが、日本語テキストを組んだ形の典型の一つとして容認できると考えることには無理があると考えます。

多くの副次的変化は、より良い、と言うより、これでも良い、という変化のように感じます。物事は低きに流れると言います。我々が着ているフォーマルな襟付きシャツも、カジュアルなTシャツも元々下着でした。浴衣だってそうです。私はいまだに浴衣で遠出したり食事に出かけたりするのにはちょっと抵抗があります。でも後から見れば悪い変化じゃない。低きに流れたものが、不思議と良いものに磨かれてゆきます。



低きに流れたものが、良いものに磨かれていく可能性があるのは、「低きに流れるのに抵抗した人々」のことを後の時代に再発見したり、「低きに流れてしまったこと」を認めつつも、「低きに流れてしまう」前の姿を復活しようとする人々が出現し、そういう人々の努力によって「低きに流れてしまった」成れの果ての形式でもなく、復活させようとした「古き良きもの」とも異なる、新たな「高きもの」が生み出される場合でしょう。

歴史上、19世紀末の欧米では、一方で活字鋳造の精度、製版と印刷の品質、生産効率は動力化の影響もあり、飛躍的に向上していました。しかし一般の印刷物の文字組の多くは18世紀以前の優れた印刷物に比べて品質が必ずしも良くない状況におかれていました。技術の進歩とタイポグラフィの様式とがバランスを欠いていたのです。それを大きく改善したのは、19世紀中頃以後、英国のピッカリングやモリスやサンダソンらによって15世紀初期印刷物のリバイバル運動が推進され、結果的にそれが、20世紀前半に自動活字鋳植機用の書体開発に継承された結果です。そこで起こったことは、「低きに流れること」を容認したのではなく、「低きに流れること」を完全に否定する、2つのまったく異なる動きでした、つまり、15世紀からバロックにかけての伝統的な組版、印刷と製本の品質を、現代の技術を使って復活すること、もう一つは、伝統とはまったく反するロシア構成主義や抽象絵画の影響を受けたアヴァンギャルドのタイポグラフィだったのです。


日本語テキストを行頭揃えで上手く組む方法がないとは考えません。また、それはきわめて興味深い研究課題ですが、パラグラフ最終行以外を行頭行末揃えで組む通常の組み方と同等かそれ以上に効果的な組みを実現することは、分かち書きを含め、実際上、かなりハードルが高いと考えます。



ふたたび長文ですみません。



山本太郎

Received on Wednesday, 13 July 2022 07:47:46 UTC