- From: Kobayashi Toshi <binn@k.email.ne.jp>
- Date: Thu, 20 Apr 2023 12:08:02 +0900
- To: MURATA Makoto <eb2m-mrt@asahi-net.or.jp>
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村田 様 小林 敏 です. 日本語組版でも,ある程度の単語や文節単位のまとまりで読んでいくことは,そうだと思います. ただ,私のいいたいことは,日本語読む場合,単語または文節か,1字1字の文字かの問題は,ラテン文字の組版との比較での問題です.ラテン文字も1字1字の認識が元になっているでしょうが,単語としてのまとまりを読むことで意味を認識します.(ただ,これは瞬時に行われますので,実際に証明することは,むつかしいように思います.読む際に意味を理解することの,その実際の脳内での処理については複数の考え方があり,そのどちらが正解かということは出ていなように思っています.) ラテン文字に比べ,日本語では,1字1字で意味をある程度は認識できます.特に仮名は,1字1字追って読んでいるように思います.ですので,仮名が連続している場合は,頭から文字を追っていって,意味をある程度類推して読んでいくのですが,仮名の区切りが以下のように,ややあいまいな場合(ちょっと例が最適でないが,ちょっと前に読んでいた例が見つからないので,要は“より”が前につくか,後に付くか文脈を見ないとわからない例です),ふとそこで,考え,前後も読み,複数の読み方を行い,意味が理解できたところで,先にすすんできます. 認識するより感情が働くことが……(実際の例は後者でした) 認識するより,感情が働くことが…… 認識する,より感情が働くことが…… ですから,一般的にいえば単語または文節で読んで(認識して)いきますが,ある程度,1字1字の認識がベースにあるように感じています. 校正作業では,原稿引合せ(いまではあまり行われていませんが)で,1字1字をおって引合せを行うのが望ましいといわれ,私もそのように行ってきました.そのような読み方で意味が読み取れないかというと,意味は読み取れます. ですので,私がいいたいことは,ラテン文字のように字間を厳密に管理したいという要求度が日本語組版では,少ないのでということです. かつて五号四分アキが一般的であったことを考えると,字間の管理が,ラテン文字とは違っているのでは,と推定させるのではないでしょうか.最近では,アキ組の例は,あまり読みやすいと私は思いませんが,講談社の“現代新書”では,本文で行われています.このような組版は,およそラテン文字の本文のテキストでは考えられないことですが,これでよいと考えている人がいるということも,ラテン文字組版と日本語組版とで,単語内の字間の処理が異なっているように思います. 以下は,本文の字間があいている例です.私のみるところ,組版の設計のミスで本文の字間が空いてしまったのではと類推しているのです(その証拠は,段落末尾行だけはベタ組です)が,版面設計を誤るとこうなります.そして,それが校正段階でも見逃されてしまったのではと思っています.もしそうであるならば,文字組版をある程度は見慣れた人でも,日本語組版の字間は,そう区別がつかないのかもしれないと予想されるのです.もちろん組版を見慣れた人なら,これは区別がつくことですが, https://www.boj.or.jp/about/koho_nichigin/backnumber/data/nichigin73-5.pdf MURATA Makoto さんwrote >> >> これに対し,日本語組版では,単語(または文節)単位で読んでいくとしても,基 >> 本は個々の漢字・仮名を1字1字読んでいきます. > > >これは疑問です。 > >読むことはフィックセーションとサッカードの >連続であることはよく知られており、読みが上達 >するとまとまり読みをします。つまり、フィク >セーションのなかで視線を動かさずにまとめて読みます。 > >視線を動かさずに一字一字読んでいくということは >まったくないとは言えませんが、フィクセーションの >両端では解像度も落ちているはずです。両端でも中央 >でも同じように一字一字読むことは物理的に不可能 >でしょう。 > >村田 真
Received on Thursday, 20 April 2023 03:11:27 UTC